廣島からヒロシマ、そして広島へ (Hiroshima, now and then)

 私は大学の6年間を広島で過ごしました。静岡に生まれた私が広島に行こうと思ったのには理由がありました。それは高校生の時に課題図書として読んだ「黒い雨」と「ヒロシマノート」でした。前者は一人の被爆女性が背負った差別や病いを通じて、原爆の残酷さ、平和への願いを淡々と綴った井伏鱒二の小説です。後者は若き大江健三郎が広島を取材し、原水禁大会や被爆者達に心を動かされ戦争の悲惨さや人間の尊厳について洞察したものです。「先の戦争は応仁の乱」とうそぶく京都人には分かりにくいかもしれませんが、広島や長崎の一般市民が被った原爆(ピカドン)は、一瞬にして数十万の生命を奪い去る壮絶なものでした。それは生存者にも過酷な人生を強い、現在まで続いています(2才で被爆、12才で白血病で亡くなった佐々木禎子さんはその象徴です)。

 2年前の5月27日、当時のアメリカ大統領オバマ氏が広島を訪問し慰霊碑の前で被爆者と抱擁した歴史的瞬間は、広島平和公園を初めて私が訪れた時の感動を思い起こさせました。私は、これは彼がマイノリテイー出身の大統領だからこそできた行為だったのではないかと思いました。米国の黒人が味わった差別と苦難の歴史は「過ちは繰返しませぬから」という共通の祈りに繋がったのではないかと思うのです。

 私の義父は原爆投下を目撃し、会社の命令で翌日市内に入りました。阿鼻叫喚の現場を目撃した義父は、子供達へ多くを語りませんでしたが、数十年後放射能の影響かと思われる稀な病気を病み亡くなりました。大江健三郎が「ヒロシマ的なるもの」と名付けたのは、被爆者自身にも簡単には言葉にできない感情であり、まして部外者がおろそかに表現できない、しかし絶対に後世に伝えなければならない平和へのメッセージだったと思います。廣島県人には戦前ハワイやブラジルへ多く移民し、進取の気性が強い県民性があります。大本営が置かれた廣島が、原爆投下により聖地ヒロシマとなり、さらに経済都市広島となりました。

 私の大学生時代は、古葉監督率いる広島カープが日本シリーズ2連覇した黄金期でした(近年も頑張っていますが万年Bクラスだった広島カープが優勝した時の市民の熱狂はすごかった)。昔の広島市民球場は太田川に近く、夏は蒸し暑い夜の熱気に包まれるのですが、真っ暗な原爆ドームのすぐ北側にあり、試合の帰り路にはそのコントラストが何とも不思議でした。震災被災者や犯罪被害者、病いを持った人間が差別を受けやすいという構図は普遍的です。深刻な病を持った人は病気自身に苦しむと同時に、周囲の差別に苦しみ、えてして怒りや無力感などを持ちます。

 医学生時代の私のテーマは患者学でした。病院環境を調べたり、精神病院や障害者施設を見学したりしました。医師となって30数年、開業してあらためて患者さんを病いを持った一人の人間として理解し診療していかなければならないと思っています。今年もまたあの暑い原爆の日がやってきます。

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